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闘議(とうぎ)格闘フォークソング ~070408_PRIDE.34~ |
u-spirit 2007.05.09 |
格信犯編集部東京支部:u-spiritさんのブログ: U魂(ウコン)でのコラムを加筆・修正ののち、転載させていただきました。皆様からの寄稿もお待ちしております。投稿はContact Us からお願い致します。
現体制の最後のPRIDE、クライマックスは休憩明けに訪れた。榊原代表がマイクを取り語りだす。「実現できなかった”そんなカード”…」
”SPEED2”のテーマでマスク姿の男がセリ出しから現れた。涙を拭いながら歩を進めリングへ向う”裏切りの英雄”を皆が凝視した。徐々に近づいて来る男が”リアル桜庭和志”だと確信すると、歓喜から絶叫へと会場のボルテージは一気に爆発した。前夜、「とんでもない事が…」との連絡を受け、半信半疑まま会場へ出向いていた僕自身も、起きるはずのない奇跡に身震いが止まらなかった。
会場の興奮が覚めやらぬ中、更にセカンド・インパクトが勃発する。”FLAME OF MIND”が鳴り響き、今度は逆側から田村潔司が”何か”を噛み締める様に、沈痛な面持ちで桜庭の待つリングへと向ってくる。正にドリームステージ・エンターテーメント。榊原代表を挟んで、井出達こそ普段着だったが桜庭和志と田村潔司が遂にリング上で交わった。この瞬間を生涯忘れまいと、涙で霞む映像を必死に脳裏へと格納する。それは限りなく”幻想”に近い”現実”であった。
桜庭曰く「このリングでもう一度、試合がしたい」
田村曰く「桜庭と僕が夢の架け橋になれれば」
田村曰く「桜庭と僕が夢の架け橋になれれば」
このセンチメンタルな光景を堪能しているとムードを遮る野次が飛んだ。
「今さら、どうでもいいよ!帰れよ!」
「今さら、どうでもいいよ!帰れよ!」
試合に勝てない、桜庭和志。
試合をしない、田村潔司。
試合をしない、田村潔司。
野次る彼らはMMAが確立された現世代の人、昨今、不甲斐のない成績である”老兵”二人が「何を今さら…」との意見も分かる。彼らは”強者が全て”という価値観で試合を観せられてきた。皮肉にも、その尺度を観衆に定植させたのは、刺激的なGP興行を連発したDSEであり、他ならぬ榊原代表自身でもある。格闘ジャンキーな彼らに対し、最後の最後に”格闘ロマン”を押し付けても理解はされない。事実上、UFCの軍門に下った今、新オーナーや米国ファンに対し、PRIDEは”世界最強”の称号を確立させるベクトルで運営すべき時に、グローバルに考えれば”不要”なエッセンスと言われても仕方ない。
本来なら、今回も出場する気で来日し、リングサイドで日本人の”自己満足”を見守っていた最大貢献者のシウバと、その絶対王者を沈めたヘンダーソンを絡めたチャンピオンシップの提案する方が、米国の関係者も米国ファンも納得したかもしれない。しかし、PRIDEはMADE IN JAPAN。日本人が日本人の”大和魂”を揺さぶる代替えのない最高の試合である"桜庭vs.田村"の必要性を榊原代表は「PRIDEの全てが凝縮された試合」と表現した。
その意を酌んで少し補足説明するなら、桜庭と田村の対峙は音楽で言うと”フォークソング”だと思って欲しい。それは何故か?誰もが感じる人生の悲哀や魂の叫びをテーマに、横文字を含まない純粋な日本語で綴られた歌詞、無理のないテンポの切ないメロディー、その全てが日本人の心に沁みる”純国産歌”であり、60年代の若者たちの象徴だった。同じく日本に誕生した純国産の総合格闘技である”U.W.F.”も80〜90年代の僕たち世代の格闘バイブルと呼べる。当時、”日本人最強”という鮮烈なプロパガンダに若者はアジテーションされ、”純国産格闘技”を武器に大人、世間、世界に立ち向かう集団に熱狂し、勝敗とは別の次元で多くのファンは共鳴していた。そこに生きた若者は、昨今、多く見受けられる予定調和の”事勿れ主義”や苦手逃避の姿勢ではなく、仲間内と言えど確執や孤立を一切、恐れずにぶつかり、結果として傷付いても、挫折しても常に這い上がっていく無骨な”生き様”をリングで誇示してきた。
新世紀の若者から見れば”フォーク”も”U.W.F.”も時代遅れで”ダサい”ジャンルかもしれない。しかし、どんなに時代が変貌しようとも、名曲として数多くのフォークソングが愛され歌い継がれている事実と同様に、今日の総合格闘技を形成する礎となった”U.W.F.”にも多くのファンが今なお、敬意を持っているのも事実。PRIDE世代はヒストリーやプロセスを事後資料で聞き入れ、「所詮はプロレス」と揶揄しているが、例えば、今の若者が”HipHop”のリリックに何らかのバイブスを感じる理屈と同一なんだと理解して欲しい。仮に自分達のリスペクトしている国産HipHopやそのアーティストに対して、所詮、「黒人の真似事だ」と否定されれば気分を害するだろう。いつの時代に措いても若者の”魂”を揺さぶり人生の不安と闘う為のバイブルは必ず存在する。そして、その象徴は本物であればある程、時を経て思い出と同じく色褪せても忘れる事はない。
周知の事実である桜庭の”田村嫌い”は一時、相当に根深いものであった。田村が初参戦したPRIDE.19のシウバ戦の際、桜庭は会場にさえ来なかった。高田は解説を拒否して離席した。両者ともUインター時代の”裏切り者”に五年の歳月では刑期満了と見なさなかった。その後、高田は自身の引退試合を経て田村と和解したが、桜庭だけが再三の”年末オファー”を断る田村に、嫌悪感を露に「理解できない」と吐き捨てていた。その時、田村は「桜庭に伝えたい事は、沢山あるが引退した時に話そうと思う」と述べ、互いの現役中に理解し合える事は不可能だと感じ、半ば諦めていた。
しかし、因果応報。今度は桜庭が”出戻り”という立場となった。そんな桜庭に田村は開口一番で「サクの思いを図って欲しい」と観客に告げ、リングを降りる際に桜庭の耳元で「がんばろうな」と囁き肩を抱いて”勇気”を称え、桜庭は田村の言葉に涙した。対照的に師匠である高田からは、露骨に怪訝な顔で握手され、素気ない態度をとられた。己の信念を曲げずに行動した結果、周囲との軋轢が生じてしまい、孤立し逆境に追い詰められ、孤独感を身をもって経験した桜庭は、田村の味わってきた”苦しみ”を知り、初めて互いを理解した瞬間だった気がする。
これまで非常に長く悲しい二人の道程ではあったが、田村が頑なに桜庭戦を拒絶してきた理由が、まるでこの日が来ることを予知していたかの様にも思えた。もう、多くの言葉は要らない。人間て、弱くて脆いが、強くも優しくもある。それを体現してきた二人の男の生き様を見届けよう。知らない世代であっても、何かを感じとれるはずだ。そんな二人の対戦が実現した時は、泉谷しげるの名曲が頭の中で流れてくるだろう。
「春夏秋冬」
作詞/作曲:泉谷しげる
季節のない街に生まれ 風のない丘に育ち
夢のない家を出て 愛のない人に逢う
人のためによかれと思い 西から東へかけずりまわる
やっと見つけたやさしさは いともたやすくしなびた
春をながめる余裕もなく 夏をのりきる力もなく
秋の枯葉に身をつつみ 冬に骨身をさらけ出す
今日ですべてが終わるさ
今日ですべてが変わる
今日ですべてがむくわれる
今日ですべてが始まるさ
作詞/作曲:泉谷しげる
季節のない街に生まれ 風のない丘に育ち
夢のない家を出て 愛のない人に逢う
人のためによかれと思い 西から東へかけずりまわる
やっと見つけたやさしさは いともたやすくしなびた
春をながめる余裕もなく 夏をのりきる力もなく
秋の枯葉に身をつつみ 冬に骨身をさらけ出す
今日ですべてが終わるさ
今日ですべてが変わる
今日ですべてがむくわれる
今日ですべてが始まるさ
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「闘議(とうぎ)」出張版日本では総合格闘技を武道とす ~061231_秋山×桜庭~ |
u-spirit 2007.01.18 |
秋山、それはアカン。この期に及んで、言い訳するのはアカン。サクが言うように入場時に一緒に座礼した子供たちに何と説明するんだ。”総合格闘技”その物が踏みにじられた気持ちだ。本当に悲しい。多汗症と言い訳した後に、感想肌なのでボディークリームを塗ったと言えば、辻褄が合わない事は子供でも理解できる。練習中に剥がれたと言い訳したグローブのロゴも、熱転写したプリントが剥がれると言うなら、買ってきたプリントTシャツは一度でも洗濯したら全部、無地になるよ。仮に事実としても、主催者側に申し出て新たなグローブを用意してもらうのが筋だ。それでも、故意ではないと言い張るなら、貴方は残念ながら格闘技に向いていない。
そして、こんな茶番記者会見を2回も開いているFEGも情けない。総合格闘技がここまで到達できたのは、今日までの多くの選手や関係者による苦難や犠牲があってこそ。ゴルドーに目を潰されても、総合格闘技発展のために残虐な競技と思われたくない一心で、失明しても沈黙を守り続けた中井祐樹しかり、今回の被害者である桜庭和志に至っては、総合格闘技界の発展に一番、貢献した選手だと分かって秋山自身も”尊敬”を口にしてきたはずだ。グレイシーが要望してくる無理難題の条件や要求を不利になると理解しつつも全て承諾した上で、完全に勝利してみせた桜庭和志の”心意気”に多くの日本人が共鳴し、忘れかけていた”武の精神”を思い出したんだ。
秋山が歩んできた柔の道も元来は武道。「武道精神」や「美徳」を持たずに、飽く迄も勝たねばならぬ、手段は選ばぬ、なら、知名度は気にせずに、公でなく私的に闇で闘えばいい。自己主張する前に、総合格闘技界で夢を持って鍛錬を続けている選手、それを支える関係者に謝罪の意があるなら、今は自ら立ち去るべきだと思う。こんな不正をしたら他競技なら追放になるだろう。総合格闘技にグレーがあってはならない。リアルっぽいファイトでは心に響かない。進化した究極の武道とも言える総合格闘技であっても、精神は永久不変、武の道は人の道、皆、勝敗以上にその生き様を観ている。
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boutholic道場探訪・出張版[道場探訪] 柔術の総本山・パレストラ東京を見学してきました! |
Guest 2005.04.08 |
総合格闘技boutholic管理人
この度、総合格闘技boutholicで「道場探訪」というコーナーを始めました。これは、格闘技の道場を訪問し練習内容などを紹介するものです。第1回として、中井祐樹先生のパレストラ東京を取材させていただきました。その模様をレポートしましたので、どうぞご覧下さい。
この度、総合格闘技boutholicで「道場探訪」というコーナーを始めました。これは、格闘技の道場を訪問し練習内容などを紹介するものです。第1回として、中井祐樹先生のパレストラ東京を取材させていただきました。その模様をレポートしましたので、どうぞご覧下さい。
池袋駅から西武池袋線で2駅目の町・江古田。日大・芸術学部をはじめとした学生街として知られているが、総合マニアの間では、「パレストラ東京」のある町として有名だ。「パレストラ東京」とは、元修斗ウェルター級王者・中井祐樹先生によって設立された、修斗とブラジリアン柔術の道場である。設立は1997年12月1日。北は北海道から南は九州まで、国内31ヶ所、海外に1ヶ所の支部を持つ、総合格闘技の道場だ。
今回、中井祐樹先生とパレストラ番頭・若林太郎氏のご厚意により、道場を見学させていただけることになった。江古田駅からは徒歩で10分ほど、都営大江戸線の新江古田駅からはわずか1分ほどの、カエサル江古田ビルB1階に、「パレストラ東京」が居を構えている。
練習を見学をさせていただいたのは土曜日の4時過ぎから、ちょうど道場が開いてすぐの時間帯で、練習生の姿はまだまばらだった。道場内には取材をしている僕たちと若林氏、中井先生、白帯の練習生の5人ほどだった。
中井先生は、白帯の方をじっくりと丁寧に指導されていた。日本人初の黒帯柔術家によるマンツーマンの指導!
その後、若林氏は修斗ニュースの締め切りの関係で帰宅され、ほどなく道場生が集まってきて、練習が本格的にスタートした。
まず始まったメニューは、下からの腕十字に対する防御方法だった。中井先生がまず手本を道場生に示し、練習生同士で反復するというのが練習の流れだ。
ガードポジションをとる相手が自分の腕を掴み、十字を取りに来る。相手の足が自分の顔にかかる前に、掴まれていない腕で、掴まれた腕の手首をフックし、足が自分の顔にかかるのを防御する。こうすると、腕ひしぎ十字固めを狙われていた腕が固定され、それ以上腕が伸びることはなくなる。
「ちょうど、見えない相手にチョークスリーパーをかけているように」と中井先生。十字を防御した後は上からプレシャーをかけて、相手の攻撃をつぶしパスガードを狙っていく。素人でもわかる、詰め将棋のような防御方法だった。
その後、道場生同士の反復練習やスパーリングなどが始まるが、中井先生は要所要所で細かいテクニックを指導していた。押さえ込んだ相手の足の動きを封じる胴着の掴み方や、パスガードにつながる細かい足さばきなど、動きのポイントの指導である。
相手の中途半端なハーフガードをちょっとした足さばきでスッと抜け出す。その足の動きは、市販の技術書やDVDなどでは決して解説されることのない、細かく地味な動作だった。「多分こうやって教えていかないと、なくなっちゃうんでしょうね」と中井先生が語る。その姿に、柔術という技術の指導だけでなく、武道的な何かを垣間見た気がした。
パレストラのキャッチフレーズは“マーシャル・アーツ・コミュニケーション”「格闘技は、言葉や人種、年齢の壁を越えることができるコミュニケーション手段である」という言葉を、あなたも体感してみてはいかがだろうか?きっともっと格闘技の面白さを実感できる。
※また、練習風景のビデオもコチラにて公開していますので、ぜひご覧になってください。
2005年1月15日に今成正和選手が道場長を務めるバルボーザジャパン東京@高田馬場の道場開きを行われました。そこで、バルボーザジャパンを主宰するTAISHO選手と親交のある、くまさん@くまページに今成選手のインタビューをお願いしました。その時の模様をお伝えします。
くま「じつは大阪でフリーペーパーやってる知人に頼まれて・・・」
今成「フリーペーパーって何ですか?」
くま「・・・えっと、無料で読めて、いろいろ記事が書いてある・・・」
今成「格信犯ってやつのことですか?」
くま「はい!そうです。」
今成「あぁ。ちっちゃくて、おしゃれっぽい人。」
<2004年11月28日のCLUB DEEP@大阪でmarc_nasが今成選手と鬼木選手とお会いし、格信犯を渡しお話させて頂きました>
今成「フリーペーパーって何ですか?」
くま「・・・えっと、無料で読めて、いろいろ記事が書いてある・・・」
今成「格信犯ってやつのことですか?」
くま「はい!そうです。」
今成「あぁ。ちっちゃくて、おしゃれっぽい人。」
<2004年11月28日のCLUB DEEP@大阪でmarc_nasが今成選手と鬼木選手とお会いし、格信犯を渡しお話させて頂きました>
くま「前田戦はどうですか?」
今成「どう、といっても気にするほどの相手じゃないし。」
くま「うわあ。何か秘密の作戦とか考えたりはしないですか?」
今成「しないですね(即答)」
関係者「でも、一応ソッカに勝ってるぞ。」
今成「ソッカに勝ってるって言っても、別に柔術で勝ったんならともかく、違うからあんまり関係ないでしょ。」
酔っていたとはいえ、実に今成選手らしいお言葉を頂戴できました。くまさん本当にありがとうございました。次回は三島☆ド根性ノ助戦を控えたTAISHO選手のインタビューをお伝えします。
参照:バルボーザジャパン東京 道場開きの様子今成「どう、といっても気にするほどの相手じゃないし。」
くま「うわあ。何か秘密の作戦とか考えたりはしないですか?」
今成「しないですね(即答)」
関係者「でも、一応ソッカに勝ってるぞ。」
今成「ソッカに勝ってるって言っても、別に柔術で勝ったんならともかく、違うからあんまり関係ないでしょ。」
酔っていたとはいえ、実に今成選手らしいお言葉を頂戴できました。くまさん本当にありがとうございました。次回は三島☆ド根性ノ助戦を控えたTAISHO選手のインタビューをお伝えします。
参照:DEEP 18th Impact 今成×前田戦試合結果
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「くまページ 総合格闘技の歴史」出張版くま格闘技観戦の歴史(総合格闘技以前〜) |
Guest 2004.11.19 |
くま 33歳 くまページ管理人
ただ試合結果のみを掲載するサイトとの差別化から、試合の内容や選手のプロフィールを掲載した資料性あるサイトを目指してデータを蓄積するというのが「くまページ」のコンセプトです。日本人の参戦した試合をベースにしたデータベースの構築を目指しており、また調査の際に集めた資料を元に「くまページBLOG」ではニッチな情報を発信したいと考えています。
ただ試合結果のみを掲載するサイトとの差別化から、試合の内容や選手のプロフィールを掲載した資料性あるサイトを目指してデータを蓄積するというのが「くまページ」のコンセプトです。日本人の参戦した試合をベースにしたデータベースの構築を目指しており、また調査の際に集めた資料を元に「くまページBLOG」ではニッチな情報を発信したいと考えています。
私は元々自分で空手をやっていたこともあり、昔から格闘技には興味がありました。もちろんプロレスはテレビで放送していましたので見ていましたが、やはり興味としては空手やボクシングといった競技的な物の方に比重が置かれていました。実際、高校の頃から「フルコンタクト空手」が愛読雑誌でしたし、夜中の時間をもてあましていた私は放送しているボクシング中継をほぼ余さず観戦するようになりました。今回は、私の格闘技観戦の歴史について、総合格闘技に至るまでを、ポイントの試合を中心にご紹介したいと思います。
私が一番良くボクシングの試合を見ていた90年頃といえば、日本では鬼塚勝也、ピューマ渡久地、川島郭志、そして辰吉丈一郎といった豪華メンバーがまだ日本ランカーレベルで凌ぎを削っていた時代です。また旧ソ連から輸入ボクサーがデビューして、勇利アルバチャコフが圧倒的な強さを見せていました。この頃の日本のボクシングは、本当に面白かったです。もちろんゴールデンに放送される世界戦の中継も見ていましたが、ここでは当時からニッチなことが好きだった私の印象に残っている試合をいくつか時系列で紹介したいと思います。
■日本フェザー級タイトルマッチ(90年11月16日・後楽園ホール)
○園寿和(京都拳闘会・挑戦者)
●淺川誠二(神戸・王者)
4R KO ※園が第40代フェザー級王者に。
○園寿和(京都拳闘会・挑戦者)
●淺川誠二(神戸・王者)
4R KO ※園が第40代フェザー級王者に。
淺川誠二選手はSバンタムの日本王座を5度防衛中の安定した王者で、この試合の後世界挑戦をする計画という、当時の日本でもトップクラスの選手でした。対する園選手、87年に相手が次々と棄権する中、2勝でSバンタム級西日本新人王を獲得した選手です。このタイトルマッチのオファーがあった時には日本6位だったのですが、タイトルマッチ前の試合で負けてしまい、挑戦時には日本10位というランキングでした。園選手の実家は京都の地図屋で、家庭の事情からこの試合を最後に家業を継ぐことが決まっていました。正直、淺川選手の世界前哨戦の為のかませ犬として選ればれたという訳です。
当然関係者はもちろん、淺川選手も、そして当の園選手さえも淺川選手が勝つと思っていました。園選手も「ボクシング人生の最後に淺川さんのような選手と戦えて光栄です。」などとコメントをしており、試合前の控え室では仲間とレポート用紙に「もう減量なんかせえへんどー。ボクサーから相撲取りへデューダだ〜。」という落書きと一緒にボクシング引退後に食べる食べ物のリストを作っているといったリラックスぶりでした。
コールされて入場する両選手。園選手は試合のトランクスのみで質素に入場。対する淺川選手はラメ入りの銀のガウンで登場です。ガウンを脱ぐと、淺川選手の靴とトランクスも銀のラメ入りで、フリンジがビラビラとあしらわれていました。
試合は1Rから淺川のペースで進み、園は防戦一方といった試合内容でした。正直力の差は明白で、園がいつ倒されてしまうのだろう、といった試合内容で3Rが終了しました。そして4R、淺川が園に圧力を掛けてロープ際まで追い詰めたその時、園の放ったフックがきれいに淺川の顎にヒットしました。返しのフックを当てると淺川はペタンとマットに座り込みダウン。レフェリーがカウントを始めます。意識ははっきりとしているものの、びっくりしている淺川、そして園は「なんで?」といった表情で呆然と立っています。レフェリーのカウントに合わせて「うん、うん」とうなずく浅川。しかし顎を打たれて脳を揺らされた為、立ち上がることが出来ずはっきりした意識の中でカウントアウトにより浅川のKO負けとなります。
本人も含めて誰もが思っていなかったタイトル奪取。チャンピオンベルトと認定書を受け取り、アナウンサーがリング上でインタビューをします。
アナ:「KO勝利おめでとうございます。(観客の『世界〜』という野次が聞こえる)
会場からは『世界』といった声も聞こえますが。」
園 :「いえいえ。僕の力は僕が一番分かっていますから。この試合で引退します。」
解説席の浜田剛史さんが「私も長年ボクシングを見てきましたが、こんなケースは初めてです。」などとコメントしていました。
アナ:「KO勝利おめでとうございます。(観客の『世界〜』という野次が聞こえる)
会場からは『世界』といった声も聞こえますが。」
園 :「いえいえ。僕の力は僕が一番分かっていますから。この試合で引退します。」
解説席の浜田剛史さんが「私も長年ボクシングを見てきましたが、こんなケースは初めてです。」などとコメントしていました。
この試合の敗戦で、浅川選手の世界挑戦は2年ほど遠回りをすることとなります。浅川選手は本当に納得がいっていない様子で、後のインタビューでも「引退したなら、ストリートファイトでもいいから再戦したい。」とコメントしていました。
10戦6勝(2KO)4敗(1KO)という戦績ながら、西日本新人王と日本王座をタイミングよく取った園選手。実力を持ちながらラッキーパンチで敗れて遠回りをし、世界挑戦のタイミングを外してしまった浅川選手。結局浅川選手は東洋フェザー級タイトルは獲得するものの、脂の乗り切った時期を逃して世界には手が届きませんでした。しかも、浅川選手は引退後の01年7月に、湖で溺れて帰らぬ人となってしまいました。
この試合は、試合自体もまるで作ったような展開で印象的でしたが、その後の人生までをも象徴しているようで、忘れられない試合でした。
■WBA世界J・バンタム級タイトルマッチ(90年6月30日・タイ チェンマイ)
●中島俊一(挑戦者・ヨネクラ)
○カオサイ・ギャラクシー(タイ)
8R TKO(レフェリーストップ)
●中島俊一(挑戦者・ヨネクラ)
○カオサイ・ギャラクシー(タイ)
8R TKO(レフェリーストップ)
■日本J・バンタム級タイトルマッチ(90年10月15日)
●中島俊一(王者・ヨネクラ)
○鬼塚勝也(挑戦者・協栄)
10R 2分42秒 TKO(セコンドのタオル投入)
●中島俊一(王者・ヨネクラ)
○鬼塚勝也(挑戦者・協栄)
10R 2分42秒 TKO(セコンドのタオル投入)
■日本J・バンタム級タイトルマッチ(91年3月18日)
●中島俊一(挑戦者・ヨネクラ)
○鬼塚勝也(王者・協栄)
10R 判定
●中島俊一(挑戦者・ヨネクラ)
○鬼塚勝也(王者・協栄)
10R 判定
90年頃、中島俊一という日本王者のボクサーがいました。高校時代には演劇部に所属していたという経歴で、明治大学でボクシングを始めて卒業後にプロになった選手です。88年に日本J・バンタム級王者となり6度防衛しているというなかなかの選手ですが、見た目はあまり強そうではありませんでした。そしてなんと言っても一番の特徴は、その驚異的な打たれ強さでした。
90年6月に世界挑戦のチャンスを得た日本王者の中島選手。王者のカオサイはそれまでタイトルを13度防衛しておりタイの英雄として名高く強い王者でした。この王者相手に、中島選手は果敢に戦いました。結果は8RKO負けでしたが、この試合で中島は1回のダウンはおろか、後退すらせずに終始前に出続けたのです。王者のカオサイはアウトボクシングで中島をめった打ちにするものの退かず倒れない中島を見て「レフェリーはどうして止めないんだ!」といったアピールをする状態でした。
そんな中島選手が再び世界に挑戦する為に、日本に戻って90年10月にタイトルマッチを行うことになりました。相手は13戦13勝12KO無敗という脅威の戦績を誇るホープ・鬼塚選手です。アマチュアのエリートだった鬼塚はすでに高い人気を誇っており、セコンドにはタレントの片岡鶴太郎。切れるパンチでKOの山を築き、国内無敵の存在でした。
鬼塚に対して王者の誇りを持つ中島は若い鬼塚のパンチを浴びて顔を腫らしながらも怯まず、堂々とい打ち合いを挑みます。そして最終10R、鬼塚の猛打が中島に襲い掛かります。中島は打たれ続けて血だるまの状態となるもやはり後ろには引かず、鬼塚に反撃のパンチを繰り出します。顔は腫れあがりふらふらになりながらも決してダウンをしない王者を見かねたセコンドがタオルを投入し、TKO負けとなりました。しかし、負けたとはいえスター鬼塚を相手に王者の誇りを見せた中島は、私に深い印象を与えたのです。
そして91年3月に、鬼塚選手の2度目の日本タイトル防衛戦で再度両者が激突します。中島選手は、まだまだ世界最挑戦をあきらめてはいませんでした。挑戦者となった中島は、鬼塚に対して果敢に打ち合いを挑むも王者となった鬼塚のパンチは精度を誇り、次々と中島の顔面を捉えます。世界王者となってからは判定勝利の多かった鬼塚ですが、世界挑戦前はそのほとんどをKOで勝利しており、前の試合では1RKOで勝利を飾っています。その鬼塚のパンチを受け続けるも、中島はあきらめずに反撃を続けたのです。正直、漫画でこんな試合展開を描いたら嘘臭い、というほどの試合内容でした。結局10R終了で大差の判定となり鬼塚の勝利となるのですが、私は「すごい物を見た」という気持ちで呆然とTVを見ていました。
この3戦を最後に中島選手はボクシングを引退しました。いずれも打たれての敗戦でしたが、完全燃焼と言っていいと思います。現在は茨城・水戸でジムを経営している中島選手。パンチドランカーになっていないかだけが心配です。
そして、93年に始まるK-1がまだ無かったこの頃、フジテレビではキックボクシングの放送が深夜に行われるようになりました。確か最初の放送のメインは、現在総合格闘技界の中心にいる慧舟会(当時はまだ空手の道場でした)の西良典と、ヨーロッパ中量級の帝王ロブ・カーマンの試合でした。
北斗の覇王・西良典が87年に長崎に慧舟会という空手の道場を開いたことは、当時フルコンタクト空手をやっていた私にとっては印象的な出来事でした。空手の道場ながら、当初から短刀による組み手など、多分に総合をイメージした練習を行っていた事を覚えています。
■全日本キック(90年9月28日・後楽園ホール)
●西良典(慧舟会)
○ロブ・カーマン(オランダ)
1R KO
●西良典(慧舟会)
○ロブ・カーマン(オランダ)
1R KO
その西選手が35才にして、バリバリの帝王カーマンに挑むもKO負けを喫しました。正直すでに西選手の動きはやや峠を越えた印象がありましたが、帝王を相手になかなかがんばったことは確かでした。試合後にプロレスラーの盟友・藤原組長と西選手が抱き合って泣いて悔しがったという記憶があります。
この西選手、その後リングスに参戦し、修斗のVTJでは日本人で始めてヒクソン・グレイシーと対戦するなど総合格闘技を考える上では外せない人物です。現在では表に現れることはほとんどありませんが、当時は30代後半ながら現役選手として打撃もグラップリングもできる総合格闘技の草分けでした。
当時は今ほど試合の機会は多くありませんでしたから、平直之や本間聡など総合系の格闘家はいろんな競技、大会に出ていたという記憶があります。90年頃というのは、純粋な総合格闘技はまだ日本にはほぼ存在しない時代でした。
当時は今ほど試合の機会は多くありませんでしたから、平直之や本間聡など総合系の格闘家はいろんな競技、大会に出ていたという記憶があります。90年頃というのは、純粋な総合格闘技はまだ日本にはほぼ存在しない時代でした。
この日の放送での他の試合は、ムエタイ7冠王のチョモンペット・トーユンヨンにキックの世界王者の清水隆広が挑む試合や、8年間無敗の伝説のキックボクサーだったモーリス・スミス、後にK-1で活躍するチャンプア・ゲッソンリット、日本のホープだった立嶋篤史など見所満載のメンバーでした。当時から空手雑誌でキックボクシングの記事を読んでいた私はTVでキックが見れるいい時代が来たものだと喜んだものです。
この試合の放送は、フジテレビの清原プロデューサー(現・PRIDEプロデューサー)が格闘技に理解があり放送に尽力したという背景から実現したものです。このあと93年にはじまるK-1の放送のプロトタイプとも言える放送で、私は立ち技格闘技の一つのターニングポイントであったと言えると思っています。
そして、
□91年 UWFの解散、3派(リングス、Uインター、藤原組)への分裂
□93年 パンクラス、K-1、UFCがそれぞれ旗揚げ
□94年 シューティングがヴァリトゥード・ジャパンを開始
などといった流れがあり、アメリカや日本でほぼ単発の総合イベントが次々を開催されるといった状況が生まれます。そして、その中心はグレイシー一族でした。
□91年 UWFの解散、3派(リングス、Uインター、藤原組)への分裂
□93年 パンクラス、K-1、UFCがそれぞれ旗揚げ
□94年 シューティングがヴァリトゥード・ジャパンを開始
などといった流れがあり、アメリカや日本でほぼ単発の総合イベントが次々を開催されるといった状況が生まれます。そして、その中心はグレイシー一族でした。
■道場破り(94年12月7日・アメリカ/ヒクソン・グレイシー柔術アカデミー)
●安生洋二(プロレス/UWFインター)
○ヒクソン・グレイシー(グレイシー柔術)
6分45秒 KO(チョークスリーパーにより失神)
●安生洋二(プロレス/UWFインター)
○ヒクソン・グレイシー(グレイシー柔術)
6分45秒 KO(チョークスリーパーにより失神)
そして94年12月に安生がヒクソンに道場破りを敢行するという事件が起きます。アポイント無しで記者を引き連れて道場破りを敢行した安生選手。Uインターでは道場を仕切り、ポリスマンとして実力には定評のあった選手でありながら、どこかユーモラスな雰囲気を持っており、個人的には好きな選手でした。実際、安生なら勝てるかも知れない、と当時の私は少し思ったりしたのですが、結局酒を飲んでから道場に行った安生はヒクソンに意図的にボコボコにされて何もできないまま失神させられました。
ただ、プロレスラーとして総合格闘技を行った初めての日本人ということもあり、その後も総合格闘技で白星は挙げられませんでしたが、私のなかではある意味特別な選手の一人ではあります。実際この人がいなかったらUインター出身の選手の総合での活躍は無かったでしょう。
そして97年10月にPRIDE.1が開催され、高田延彦がヒクソン・グレイシーに何もできずに敗退するという大きなターニングポイントのイベントが行われました。日本中の格闘技ファンが失望したこのイベントの2ヶ月後、日本の総合格闘技界に一つの光明が現れます。
■UFC Japan "Ultimate Japan 1"(97年12月21日・横浜アリーナ)
○桜庭和志(プロレス)
●マーカス”コナン”シウヴェイラ(ブラジリアン柔術)
1R 3分45秒 ギブアップ(腕ひしぎ逆十字固め)
○桜庭和志(プロレス)
●マーカス”コナン”シウヴェイラ(ブラジリアン柔術)
1R 3分45秒 ギブアップ(腕ひしぎ逆十字固め)
TV東京の深夜枠という、マイナーな時間ながらTVで放送されたUFCの日本大会。ヘビー級トーナメントが行われ、プロレスラーで数少ない総合のできる安生洋二、UFCで活躍していたタンク・アボット、柔術黒帯のマーカス”コナン”シウヴェイラ、そして急遽参戦の桜庭和志というメンバーでした。
正直、桜庭選手は総合初参戦で、コアなファンからは、若いのに渋いいぶし銀の選手という評価でしたが、Uインターでも目立った活躍をしていたわけではありませんでした。しかも、予定していた選手に出場を断られ、急遽Uインターから選手を出すこととなり、4日前に金原選手にオファーが行くも断られたところから、若手の桜庭選手に出番が回ってきたといいういわば間に合わせの出場でした。
この桜庭選手、マーカス・コナンと1回戦で対戦し、打撃を受けながら低空タックルに入ったところをレフェリーにストップされ、セコンドの金原の指示で30分オクタゴンに居座るという抗議の末に決勝でコナンと再戦という流れとなる波乱がありました。
再戦の決勝では、コナンが桜庭のバックをいきなり奪う場面からのスタートとなりました。当時としてはいきなり絶対絶命の状態であるポジションからコナンの腕を取り、回転しながら腕十字に移行して一本勝ちをおさめるという快挙を成し遂げました。
再戦の決勝では、コナンが桜庭のバックをいきなり奪う場面からのスタートとなりました。当時としてはいきなり絶対絶命の状態であるポジションからコナンの腕を取り、回転しながら腕十字に移行して一本勝ちをおさめるという快挙を成し遂げました。
当時は柔術を学ばなければ総合で勝つことは難しいと思われており、総合格闘技系の団体ではこぞって柔術のテクニックを研究していた時代でした。そんな中で、トップのプロレスラーではない桜庭選手が柔術黒帯から一本勝ちをおさめて「プロレスラーは本当は強いんです」という台詞を吐いたのです。高田選手がヒクソンに敗れて沈んでいたファンに対する、まさしく救世主が現れたのです。
以降は現在の総合格闘技につながる流れですので割愛しますが、一貫して言えるのは、結果が明確に出る競技が好きであるということと、アドバンテージのある競技や選手に対しての思いいれが強いと言うことです。総合格闘技というまだ若い競技を、その創生期から見ることができたのはある意味幸せなことだと思っていますので、私の好きな競技の片隅に少しでも貢献できたら、と思っています。
