■願はくは 花の下にて 春死なむ(西行法師)
兎角、日本人は古来より死に際や散り際に「美学」を求める。必衰の理というか、諸行無常というか、その美徳は現代人のDNAにも刻まれており、去り際や引き際といった辞意を決断すべき時に個人も周囲も「美学」を求めてしまう。
そして、それは”プロ”とつく競技者なら尚更。特に武道家、格闘技選手の多くは去り際に拘る。本当は人の終焉に正しい形など在ろう筈もないし、まして周囲が求めるものでもない。更に言えば、武道家なれば最後に花道など不要。武道の道の最後は”最期”であって然るべきだと。
吉田秀彦という総合格闘家がいた事は多くのファンは忘れないだろう。けど、個人的には総合格闘技での彼の功績を素直に称える気分にはなれない。
五輪柔道金メダリストの看板を引っ提げて総合のリングに乗り込んできて、尚、彼は柔道家であり続けた。
彼が柔道家であると言い続けた拘り、誇り、魂まで否定するつもりはないが、その後も次々に柔道界からの「飛び級」を招聘し続け、実力が不明瞭で準備不足の後輩たちを優遇しリングに上げる一端を担っていたのは確かだと思う。
なのに、引退後は柔道界に恩返ししたいと言う。まるで巨人から移籍し別の球団で現役引退を迎えたのに”元巨人”ぶる選手の様だ。
そりゃないよ・・・。
温かく第二の活躍の場を提供してくれた人たちがいるだろ。一番に総合格闘技界への恩返しを考慮すべきではないのか?
そう、思ってしまう。だから、最期の仕合も一番弟子相手に御座なりな試合となったんだ。113kgという体重で最期を迎えるに相応しい練習をしていたとは到底、思えない。こんな感じ、いつの頃だろう。吉田秀彦の試合に「覚悟」が見えなくなったのは。
吉田秀彦はとっくに引退したかったのかもしれない。
けれど、周囲や後身たちの為に泣く泣く現役を続行していた様な気がしてならない。それは、道場主や親分としては正解であろう。けれど、プロとして、武道家としてはどうなんだろう。そんな親分肌、兄貴肌が道場門下生たちの危機感や自立心を阻害し、いつまでも吉田秀彦の傘から抜けられぬ”井の蛙集団”になってしまったのではなかろうか。
ただ、僕が吉田秀彦を唯一、認めていたのは、人前で泣かなかったこと。どんな状況であっても、人前ではどの種の涙もけして見せなかった。引退式典でご両親が来られたとき彼は初めて僅かな涙を見せた。それでも、言いたい言葉はありがとうではない。
僕は吉田秀彦の生き様と死に様を見届けたかった。彼は群れる事でいつしか牙が削がれた気がしてならない。引退試合の相手であった中村をはじめ彼には多くの後輩と仲間がいる。それは、格闘家 吉田秀彦のためになっていたのか疑問である。
PRIDE GP 2003の準決勝のヴァンダレイ・シウバ戦、あの日、僕は一筋の光明を見た。「吉田秀彦なら勝てるのかも」正直にそう思えた。ただ、後の吉田秀彦の仕合では二度と同じ光を見つけることはできなかった。
同じこの4月にひっそりと引退した坂口征夫の生き様には胸が熱くなる程、彼の貫いた潔さを感じ取れ共感できた。
■武の道は孤の道、敵は我の中にあり、故に我、自ら完結す
武道家、格闘家とは孤独であるべきなのかもしれない。
吉田秀彦の引退式典に出席し握手を交わした田村潔司、その姿に田村潔司自身も最期のかたちを既に考えているんだと悟る。追いかけていた光が消える瞬間、何を思い、何を考えどんな感情になるのだろう。去りし日々が長かった事に今更ながら気付いた。
闘議(とうぎ)必衰 -吉田秀彦引退興行:ASTRA- |
u-spirit 2010.04.27 |
闘議(とうぎ)其処にある底 -DREAM.11- |
u-spirit 2009.10.18 |
多くの競技には確立された形式と明確なルールがある。だからこそ曖昧なモノは競技と誰も見なさない。DREAM.11を見て内に残るザラついた感覚。寂しさ、妬ましさ、悔しさ。
一体、格闘技に僕は何を求めてきたのか?
単純明快に抱いた素朴な疑問「誰が一番強いのか?」それを証明するために発生したのがジャンルを越えた総合的な格闘技、MMAだったはずなのに、今大会に対して以前の様な明確な否定をできない。何故だろう。
今大会を敢えて例えるならば、昭和のテレビ特番で見ていた「スター大運動会」。
主役である売れっ子アイドル、人数合わせの無名タレント、全ての引き立て役の芸人。三者がそれぞれのポジションを理解した上で「競技」という名の「イベント」に全力で取り組む。アイドルは可愛く、格好良く、爽やかに、無名タレントは出張ることなく目立たぬ様に、芸人は盛り上げるために枠を超え脱線してみせる。皆、明日の自分のために、それぞれのカタチの全力を投じる。
総合格闘技大会が大運動会のようになってしまった背景には、格闘技を取り巻く厳しい現実がある。人々の感心が薄れていく中、競技としての確立よりコンテンツの生き残りを賭け、お茶の間への分かり易さを優先した「謙り演出」は仕方のない妥協かもしれないと顕著に出た数値に思わざる得ない。あれだけ飽きたと言われた亀田大毅の試合が20%超える視聴率なのに対し、DREAM.11はミノワマンの試合が最高でも12%止まり。これが現実なのだ。
しかも苦渋の選択の渦中で必死にもがく選手たちの試合が明日に繋がる保障など何処にもない。それでも目の前の試合を全力で闘った選手たち。だから、興行としては認めるべきだろうけど、会場でLIVE観戦できなかった後悔には至らない。それはたまたま見た連ドラの続き見逃した時と同じ感覚。放送していれば見るが、たとえ次回を見逃しても気にならない。よもや自分が格闘技の大会を見て、こんな感覚に陥るとは・・・。
DREAM.11というスター大運動会でアイドル扱いだったのが桜庭、川尻。無名タレント扱いだったのがソクジュ、バラクーダ。芸人扱いだったのがミノワマン、ボブ・サップ。その他は一応、選手として扱われていた。今、ピンで活動する清純派アイドルが絶滅した様に、過剰に色付けすると真実味はますます薄れて気付かれる。格闘家や競技者はシンプルに「強さ」が基準だったからリアルファイトと呼ばれた。それ以外の物差しにより、カテゴライズした時点でイメージファイトとなってしまう。
それでも生き残らねば明日はない。自分が長年愛した格闘技に失望だけはしたくない。百年に一度の不景気と言われる俗世間と同様に、今は残存することが最優先だと信じるしかない。リアリティーが色褪せ底尽く前にMMAが再び、正道を歩みだせる日の到来を切望する。
亀田大毅、試合の組み立てが出来ず攻撃も単調過ぎた。
局面を打開する為の策がない。序盤こそ鋭いジャブからリズムにのったコンビネーションによる攻撃をしていたが、中盤以降になると昔の亀田スタイルに戻ってしまう。VTRを見ているかの如く、ラウンド毎に変化はなく、大振りフックと単発ストレートだけの攻撃は王者に先を読まれ次第に掌握されていき、挙句に疲れだした王者に上手くクリンチで潰される。
これまでロートル選手としか手を合わせてない大毅の経験不足が露呈した試合だった。更にあの「厳重注意」が大毅にとってマイナスに作用し強引さが求められる局面でも正攻法で戦ってしまった。
でも、亀田スタイルらしい良いところもあった。
あれだけ王者の強烈なボディーブローを受けても倒れない屈強な肉体とスタミナ、そして精神力は素晴らしかった。反則行為による出場停止で虚勢されてしまった「やんちゃ」を今後は強(したた)かさに変えて備える必要がある。
それには場数を踏むしかない。
今、持ち合わせる強打とスタミナに「巧さ」を身に付ければ大抵のボクサーは太刀打ちできない。想定される全てのタイプと対戦してから再挑戦しても時間は充分にある。出場停止明けの試合後に大毅自身が発言していた様に日本、東洋太平洋王座を奪取を目指し歩めば頂点はそう遠くないと思える。
で、亀田父、少し弁えよ。色んな事を経験し人間としてもボクサーとしても強く大きく成長した息子達が浮かばれない。無期限ライセンス停止処分中にも拘らず、スパーリングしたり、周囲の注意も聞かずセコンドに詰め寄ったり、試合後、素直に敗北を認めた大毅の気持ちも察せずに判定を批判したり、その傍若無人ぶりは稚拙で哀れなり。
人一倍、子を思う気持ちが強いのは分かるが、それでは誰も認めてくれない。
省みた時、人は成長する。
敗戦を糧に悔しさをバネに大きく成長した息子の隣で「過ち」を認めず「非」を自覚できない父親がこれ以上、何を説くと言うのか。息子を勝たせたいのではなく、自分が勝ちたいだけ。
とにかく日本のマスコミ、特にTBSはスポーツでの親子鷹美談が好きである。しかし、親が過剰に介入するのは、子の成長と人格形成を阻害する。
ボクシング経験もない天下茶屋のゴンタが息子を独自理論の実験台にするのは、もう、「親のエゴ」でしかない。そんな亀田父の姿に辰吉丈'一郎の父上で亡くなられた辰吉粂二さんの言葉を思い出す。
「試合をしているのは息子じゃ。ワシが行くことはない。」
勇気を持って闘いに挑んでいるのは息子。
息子だからと親の自分が口出す事はもう何もない。
粂二さんは何度招待されても息子 丈'一郎の試合を会場で観戦する事はなかった。
でも、他の誰よりも息子を強く見守り支えていた。
それが親から子への正しい愛情であり、温かさだと思う。
プロレスバカより愛を込めてプロレスバカより哀を込めて |
28ん 2009.07.14 |
2009年6月13日22時10分 三沢光晴永眠
あまりにも唐突で、あまりにもショッキングなニュースだった。
その日、私は飲み会の真っ最中。くだらない冗談を肴に宴を楽しんでいるところに、知人、友人からのメールでの報告が続く。
結局その日は事務所に夜中戻る。ネットにて情報収集。橋本真也の時もショックだったが、その時のスキャンダラスで不透明な情報とは違い、試合中のアクシデントということでプロレスバカとしてはショックも倍であった。
何故こんな事が起きてしまったのだろうか?
ここからは私の主観でしかないのだが、対総合格闘技への抵抗(もがき)がこういう結果を招いたに違いないと思えてならない。
プロレスはショーか?スポーツか?八百長か?真剣勝負か?
そんなこだわりやそれを明確にしたり、誤魔化したりすることに何の意味があるのだろうか?
「ショーであろうがなかろうが、あれだけのことをするためにあんなに身体を鍛えているからすごい。」そんなコメントさえ私は不要だと考える。プロレスはプロレスだ。それ以下でもそれ以上でもないのだ。
かつて力道山の時代。空手チョップだけで人が湧いた。
外人レスラーを倒す日本人(実際は在日韓国人だが)というシンプルな構図からか。筋書きのない真剣勝負ととらえていたからか。その真偽はわからない。何故なら私はその時代に生きていない。
私のリアルな体験から言うと、初代タイガーマスクの登場には興奮した一人だ。人間(常人)離れしたパフォーマンスに興奮したのだ。まるで超人をみるかのように。150キロのストレートを投げる投手に感じる興奮のような、それがある種プロアスリートを見るその感覚に近かったのはプロレスがスポーツというカテゴリーに属していたのかもしれない。
新しい時代が幕を開ける。総合格闘技の波だ。プロレスのグレーゾーンを見事払拭する真剣勝負という名のシンプルな戦い。プロレスラーがそこで強さを示せなかったことでますますショー的視点で隅へと追いやられていくプロレス。興行戦略からか、ハッスルなるものが現れ、ファイティングオペラと銘打ちショーであることを大々的にアピールする。真剣勝負=総合格闘技:ショー=プロレス。の完全2極化の戦略により、旧態からの私のいうところのプロレスというカテゴリーは完全に宙ぶらりんな状態にされてしまう。その中でおふざけではないプロレス。激しいプロレス。は対総合格闘技への抵抗(もがき)の中で活路を見出すしかなくなってしまったのである。
危険度、難易度の高い技が数多く編み出され、身体への負担、酷使があたりまえとなる。身体へのリスクと引き換えにレスラーはお客さんへのアピールを続ける。FMWのハヤブサ選手の試合中の事故の時にもかなり嫌な感じを受けたのを覚えている。本当のプロレスファンはそんなことを望んではいないと思う。プロレス大賞に選ばれた「小橋vs健介」のチョップ合戦による試合。それでも充分に感動し、涙できるのだ。
齋藤彰俊の家は嫌がらせの電話や手紙が届いているそうである。それを見かねた仲田部長が「選手は毎試合、死を覚悟して試合に臨んでいるので、誰のせいとかは無い。だからそういう行為は三沢本人も望まないので止めていただきたい。」という旨のコメントを発表した。そういうコメントこそ止めてもらいたい。死など覚悟していない。真剣にプロレスを行うという覚悟で選手はリングに上がってはいるが、そこに死を連動などさせていないはずだ。生死というリアリズムを発することでプロレスというビジネスのイメージを崩さないなどというのであれば、それは愚弄だ。対総合格闘技という呪縛から一刻も早く抜け出してもらいと願うばかりだ。
全日本プロレス社長武藤選手がコメントしていた。日頃「レスラーである以上死ぬ時はリングで死にたい。」と言っていたが、今回このようなことがあった以上、今後そんなことは言えなくなると・・・
楽しく激しく、プロレスはプロレスであり続けて欲しい。しかし、その行き着く先の究極が決して「死」ではないことだけは誤解せずにいて欲しい。激しさ=危険という誤訳が悲しみを生まないことを祈りたい。
三沢選手のご冥福を心より祈り、三沢選手の死を無駄にしないプロレスの未来を期待する。
プロフェッショナル修斗公式戦 修斗伝承
-Road to 20th Anniversary FINAL-
09.05.10 SUN @JCB HALL
Open 14:00 Start 16:00
-Road to 20th Anniversary FINAL-
09.05.10 SUN @JCB HALL
Open 14:00 Start 16:00
修斗とは 斗いを修めるまで果てぬ道
遡ること10数年、総合格闘技が認知される以前の時代
突如、リングに降臨した「月狼」という名のニホンオオカミは無敵を誇り、人々から犬神として神聖視された。
そんな月狼に魂を導かれし多くの少年が同亜種として牙狼となり其々、成長した者から外来種との壮絶なる斗いに身を投じ総合格闘技界で「修斗」の確固たる地位を祖先の教えと共に今日も守り抜いている。
威信と沽券を死守するのは容易いことではないが、永きに亘り覇権を成し遂げてこれた最大の要因は”掟”にある。
修斗という群れの掟は揺ぐこと無く、今以て誰もが同じ道程を歩まねば長に君臨する事は叶わない。
この平等たる掟こそが紛い者を生まず、本物の狼だけを育てあげ、二十年間も斗い抜いてこれた修斗の源である。一段、一段、精進して己と技を磨かねば頂点には、けして立てない。
それは年老いたカリスマ「月狼」にも平等に課せられた条件である。
追い越されることへの不安、到達できぬことへの苛立ち、先陣の立っていた月狼が殿(しんがり)を歩むとはファンも本人も想像し得なかった。気が付けば月狼は修斗、最後の純粋種となってしまった。
そんな月狼の目前には幾つもの抜け道が出てきた。それでも、月狼は「闘い」ではなく、「斗い」に拘り続け、与えられる事を拒み、奪い取ることにこそ価値があると、他の群狼たちに左右されることなく己を貫いてきた。
彼が斗い続ける限り修斗のリングからオオカミは絶滅しない。
だが、今回、月狼とってこれが最後の斗いとなるやもしれない。
だから信じる。月狼が頂に立ち長となりて高らかに吠える姿を。
僕にとっての修斗とは佐藤ルミナ以外にないのだから。
時代移ろえど月狼は死なず、満月の夜、悲願成就完遂す。
斗え、月狼、佐藤ルミナ