boutholic道場探訪・出張版[道場探訪] 柔術の総本山・パレストラ東京を見学してきました! |
Guest 2005.04.08 |
総合格闘技boutholic管理人
この度、総合格闘技boutholicで「道場探訪」というコーナーを始めました。これは、格闘技の道場を訪問し練習内容などを紹介するものです。第1回として、中井祐樹先生のパレストラ東京を取材させていただきました。その模様をレポートしましたので、どうぞご覧下さい。
この度、総合格闘技boutholicで「道場探訪」というコーナーを始めました。これは、格闘技の道場を訪問し練習内容などを紹介するものです。第1回として、中井祐樹先生のパレストラ東京を取材させていただきました。その模様をレポートしましたので、どうぞご覧下さい。
池袋駅から西武池袋線で2駅目の町・江古田。日大・芸術学部をはじめとした学生街として知られているが、総合マニアの間では、「パレストラ東京」のある町として有名だ。「パレストラ東京」とは、元修斗ウェルター級王者・中井祐樹先生によって設立された、修斗とブラジリアン柔術の道場である。設立は1997年12月1日。北は北海道から南は九州まで、国内31ヶ所、海外に1ヶ所の支部を持つ、総合格闘技の道場だ。
今回、中井祐樹先生とパレストラ番頭・若林太郎氏のご厚意により、道場を見学させていただけることになった。江古田駅からは徒歩で10分ほど、都営大江戸線の新江古田駅からはわずか1分ほどの、カエサル江古田ビルB1階に、「パレストラ東京」が居を構えている。
練習を見学をさせていただいたのは土曜日の4時過ぎから、ちょうど道場が開いてすぐの時間帯で、練習生の姿はまだまばらだった。道場内には取材をしている僕たちと若林氏、中井先生、白帯の練習生の5人ほどだった。
中井先生は、白帯の方をじっくりと丁寧に指導されていた。日本人初の黒帯柔術家によるマンツーマンの指導!
その後、若林氏は修斗ニュースの締め切りの関係で帰宅され、ほどなく道場生が集まってきて、練習が本格的にスタートした。
まず始まったメニューは、下からの腕十字に対する防御方法だった。中井先生がまず手本を道場生に示し、練習生同士で反復するというのが練習の流れだ。
ガードポジションをとる相手が自分の腕を掴み、十字を取りに来る。相手の足が自分の顔にかかる前に、掴まれていない腕で、掴まれた腕の手首をフックし、足が自分の顔にかかるのを防御する。こうすると、腕ひしぎ十字固めを狙われていた腕が固定され、それ以上腕が伸びることはなくなる。
「ちょうど、見えない相手にチョークスリーパーをかけているように」と中井先生。十字を防御した後は上からプレシャーをかけて、相手の攻撃をつぶしパスガードを狙っていく。素人でもわかる、詰め将棋のような防御方法だった。
その後、道場生同士の反復練習やスパーリングなどが始まるが、中井先生は要所要所で細かいテクニックを指導していた。押さえ込んだ相手の足の動きを封じる胴着の掴み方や、パスガードにつながる細かい足さばきなど、動きのポイントの指導である。
相手の中途半端なハーフガードをちょっとした足さばきでスッと抜け出す。その足の動きは、市販の技術書やDVDなどでは決して解説されることのない、細かく地味な動作だった。「多分こうやって教えていかないと、なくなっちゃうんでしょうね」と中井先生が語る。その姿に、柔術という技術の指導だけでなく、武道的な何かを垣間見た気がした。
パレストラのキャッチフレーズは“マーシャル・アーツ・コミュニケーション”「格闘技は、言葉や人種、年齢の壁を越えることができるコミュニケーション手段である」という言葉を、あなたも体感してみてはいかがだろうか?きっともっと格闘技の面白さを実感できる。
※また、練習風景のビデオもコチラにて公開していますので、ぜひご覧になってください。
2005年1月15日に今成正和選手が道場長を務めるバルボーザジャパン東京@高田馬場の道場開きを行われました。そこで、バルボーザジャパンを主宰するTAISHO選手と親交のある、くまさん@くまページに今成選手のインタビューをお願いしました。その時の模様をお伝えします。
くま「じつは大阪でフリーペーパーやってる知人に頼まれて・・・」
今成「フリーペーパーって何ですか?」
くま「・・・えっと、無料で読めて、いろいろ記事が書いてある・・・」
今成「格信犯ってやつのことですか?」
くま「はい!そうです。」
今成「あぁ。ちっちゃくて、おしゃれっぽい人。」
<2004年11月28日のCLUB DEEP@大阪でmarc_nasが今成選手と鬼木選手とお会いし、格信犯を渡しお話させて頂きました>
今成「フリーペーパーって何ですか?」
くま「・・・えっと、無料で読めて、いろいろ記事が書いてある・・・」
今成「格信犯ってやつのことですか?」
くま「はい!そうです。」
今成「あぁ。ちっちゃくて、おしゃれっぽい人。」
<2004年11月28日のCLUB DEEP@大阪でmarc_nasが今成選手と鬼木選手とお会いし、格信犯を渡しお話させて頂きました>
くま「前田戦はどうですか?」
今成「どう、といっても気にするほどの相手じゃないし。」
くま「うわあ。何か秘密の作戦とか考えたりはしないですか?」
今成「しないですね(即答)」
関係者「でも、一応ソッカに勝ってるぞ。」
今成「ソッカに勝ってるって言っても、別に柔術で勝ったんならともかく、違うからあんまり関係ないでしょ。」
酔っていたとはいえ、実に今成選手らしいお言葉を頂戴できました。くまさん本当にありがとうございました。次回は三島☆ド根性ノ助戦を控えたTAISHO選手のインタビューをお伝えします。
参照:バルボーザジャパン東京 道場開きの様子今成「どう、といっても気にするほどの相手じゃないし。」
くま「うわあ。何か秘密の作戦とか考えたりはしないですか?」
今成「しないですね(即答)」
関係者「でも、一応ソッカに勝ってるぞ。」
今成「ソッカに勝ってるって言っても、別に柔術で勝ったんならともかく、違うからあんまり関係ないでしょ。」
酔っていたとはいえ、実に今成選手らしいお言葉を頂戴できました。くまさん本当にありがとうございました。次回は三島☆ド根性ノ助戦を控えたTAISHO選手のインタビューをお伝えします。
参照:DEEP 18th Impact 今成×前田戦試合結果
discoveRYO channel高田道場 餅つき大会 |
RyoTheRock 2005.01.21 |
第6回は、新年を迎え1発目ということで、毎年恒例の高田道場『餅つき大会』についてのdiscoveRYO です。桜庭選手の大ファンの僕としてはこんなチャンスを逃すわけにはいきませんので、もちろん参加してきました。
当初、道場向いのマンション前で行われる予定だったのですが、あいにくの雨天。災い転じて福と成すというべきか、急遽場所が変更となり、道場内に潜入する事ができました!ワクワクしながら階段を降りていくと・・・もう既に選手達がいるではないですか!!高田統括本部長、桜庭選手、山本選手、松井選手と実にその距離2m。すぐ目の前で餅つきをしているのです!!!興奮し過ぎて気絶しそうになりながら、「よいしょ〜!」と一緒に声を出し、餅をつく選手達をカメラで撮りまくる僕。
選手達の次に道場生の子供達が餅をつき、いよいよ僕たち一般ファンに順番が回ってきました。待ってましたとばかりに僕も手を挙げ、餅をつかせてもらってきました!その模様をお伝えします。
松井選手「これで仕上げますんで、ガンガンいっちゃって下さい。」
RTR 「わかりました!がんばります!!」と全身全霊の力を込め、きねを打ち下ろした瞬間、うすの角部分を思いっきり叩いてしまい、木くずを大量に餅にかけてしまう。
RTR 「すいませんっ!大丈夫ですか?」
若手選手「大丈夫ですよ、気にしないで下さい。」
と超優しい言葉をかけてもらい、気を取り直して何度かついているうち、僕の非力さを見かねてか、
松井選手「じゃ、僕が最後やりますんで。」と超パワフルにきねを打ち下ろし、終了〜。
RTR 「わかりました!がんばります!!」と全身全霊の力を込め、きねを打ち下ろした瞬間、うすの角部分を思いっきり叩いてしまい、木くずを大量に餅にかけてしまう。
RTR 「すいませんっ!大丈夫ですか?」
若手選手「大丈夫ですよ、気にしないで下さい。」
と超優しい言葉をかけてもらい、気を取り直して何度かついているうち、僕の非力さを見かねてか、
松井選手「じゃ、僕が最後やりますんで。」と超パワフルにきねを打ち下ろし、終了〜。
肝心の餅のお味はというと・・・やわらかい!思わず「お口の中が、フワフワ祭りじゃあ〜!」と声を上げてしまうぐらいおいしかったです。参加者は少しの一般ファンと報道陣で、大半は道場生の父兄の方々と、道場内は実にアットホームな雰囲気でした。満腹になった子供達がスパーリングを始め、三角締めやら、下からの腕ひしぎ逆十字などプロ顔負けの技を披露しているのにはビックリで、実に将来が楽しみです。餅つきが一段落した頃、高田統括本部長への取材が始まり、横で聞き耳を立ててみると、ミルコvsヒョードルやミドル級GPについて話していたと思うのですが、あまり覚えていません。。。
何より今回嬉しかった事は、昨年の『PRIDE男祭り』を欠場し、きねをつくのを数回に抑えるなど、まだ万全とはいかないものの、桜庭選手の元気そうな笑顔を見られたことです。 さらに選手達と一緒に餅をつかせてもらい、写真まで撮ってもらいと人生最良の日となりました。最後に高田統括本部長のお話「餅ついてない人は今年不幸になるよ!」などがあって、参加者全員で三本締め×5セット!?をし、道場を後にしました。そこで、今回のdiscoveRYO は餅もついたし、これで今年は幸せ祭りじゃあ〜!ということで締めさせて頂きます。
その模様はコチラ
「くまページ 総合格闘技の歴史」出張版くま格闘技観戦の歴史(総合格闘技以前〜) |
Guest 2004.11.19 |
くま 33歳 くまページ管理人
ただ試合結果のみを掲載するサイトとの差別化から、試合の内容や選手のプロフィールを掲載した資料性あるサイトを目指してデータを蓄積するというのが「くまページ」のコンセプトです。日本人の参戦した試合をベースにしたデータベースの構築を目指しており、また調査の際に集めた資料を元に「くまページBLOG」ではニッチな情報を発信したいと考えています。
ただ試合結果のみを掲載するサイトとの差別化から、試合の内容や選手のプロフィールを掲載した資料性あるサイトを目指してデータを蓄積するというのが「くまページ」のコンセプトです。日本人の参戦した試合をベースにしたデータベースの構築を目指しており、また調査の際に集めた資料を元に「くまページBLOG」ではニッチな情報を発信したいと考えています。
私は元々自分で空手をやっていたこともあり、昔から格闘技には興味がありました。もちろんプロレスはテレビで放送していましたので見ていましたが、やはり興味としては空手やボクシングといった競技的な物の方に比重が置かれていました。実際、高校の頃から「フルコンタクト空手」が愛読雑誌でしたし、夜中の時間をもてあましていた私は放送しているボクシング中継をほぼ余さず観戦するようになりました。今回は、私の格闘技観戦の歴史について、総合格闘技に至るまでを、ポイントの試合を中心にご紹介したいと思います。
私が一番良くボクシングの試合を見ていた90年頃といえば、日本では鬼塚勝也、ピューマ渡久地、川島郭志、そして辰吉丈一郎といった豪華メンバーがまだ日本ランカーレベルで凌ぎを削っていた時代です。また旧ソ連から輸入ボクサーがデビューして、勇利アルバチャコフが圧倒的な強さを見せていました。この頃の日本のボクシングは、本当に面白かったです。もちろんゴールデンに放送される世界戦の中継も見ていましたが、ここでは当時からニッチなことが好きだった私の印象に残っている試合をいくつか時系列で紹介したいと思います。
■日本フェザー級タイトルマッチ(90年11月16日・後楽園ホール)
○園寿和(京都拳闘会・挑戦者)
●淺川誠二(神戸・王者)
4R KO ※園が第40代フェザー級王者に。
○園寿和(京都拳闘会・挑戦者)
●淺川誠二(神戸・王者)
4R KO ※園が第40代フェザー級王者に。
淺川誠二選手はSバンタムの日本王座を5度防衛中の安定した王者で、この試合の後世界挑戦をする計画という、当時の日本でもトップクラスの選手でした。対する園選手、87年に相手が次々と棄権する中、2勝でSバンタム級西日本新人王を獲得した選手です。このタイトルマッチのオファーがあった時には日本6位だったのですが、タイトルマッチ前の試合で負けてしまい、挑戦時には日本10位というランキングでした。園選手の実家は京都の地図屋で、家庭の事情からこの試合を最後に家業を継ぐことが決まっていました。正直、淺川選手の世界前哨戦の為のかませ犬として選ればれたという訳です。
当然関係者はもちろん、淺川選手も、そして当の園選手さえも淺川選手が勝つと思っていました。園選手も「ボクシング人生の最後に淺川さんのような選手と戦えて光栄です。」などとコメントをしており、試合前の控え室では仲間とレポート用紙に「もう減量なんかせえへんどー。ボクサーから相撲取りへデューダだ〜。」という落書きと一緒にボクシング引退後に食べる食べ物のリストを作っているといったリラックスぶりでした。
コールされて入場する両選手。園選手は試合のトランクスのみで質素に入場。対する淺川選手はラメ入りの銀のガウンで登場です。ガウンを脱ぐと、淺川選手の靴とトランクスも銀のラメ入りで、フリンジがビラビラとあしらわれていました。
試合は1Rから淺川のペースで進み、園は防戦一方といった試合内容でした。正直力の差は明白で、園がいつ倒されてしまうのだろう、といった試合内容で3Rが終了しました。そして4R、淺川が園に圧力を掛けてロープ際まで追い詰めたその時、園の放ったフックがきれいに淺川の顎にヒットしました。返しのフックを当てると淺川はペタンとマットに座り込みダウン。レフェリーがカウントを始めます。意識ははっきりとしているものの、びっくりしている淺川、そして園は「なんで?」といった表情で呆然と立っています。レフェリーのカウントに合わせて「うん、うん」とうなずく浅川。しかし顎を打たれて脳を揺らされた為、立ち上がることが出来ずはっきりした意識の中でカウントアウトにより浅川のKO負けとなります。
本人も含めて誰もが思っていなかったタイトル奪取。チャンピオンベルトと認定書を受け取り、アナウンサーがリング上でインタビューをします。
アナ:「KO勝利おめでとうございます。(観客の『世界〜』という野次が聞こえる)
会場からは『世界』といった声も聞こえますが。」
園 :「いえいえ。僕の力は僕が一番分かっていますから。この試合で引退します。」
解説席の浜田剛史さんが「私も長年ボクシングを見てきましたが、こんなケースは初めてです。」などとコメントしていました。
アナ:「KO勝利おめでとうございます。(観客の『世界〜』という野次が聞こえる)
会場からは『世界』といった声も聞こえますが。」
園 :「いえいえ。僕の力は僕が一番分かっていますから。この試合で引退します。」
解説席の浜田剛史さんが「私も長年ボクシングを見てきましたが、こんなケースは初めてです。」などとコメントしていました。
この試合の敗戦で、浅川選手の世界挑戦は2年ほど遠回りをすることとなります。浅川選手は本当に納得がいっていない様子で、後のインタビューでも「引退したなら、ストリートファイトでもいいから再戦したい。」とコメントしていました。
10戦6勝(2KO)4敗(1KO)という戦績ながら、西日本新人王と日本王座をタイミングよく取った園選手。実力を持ちながらラッキーパンチで敗れて遠回りをし、世界挑戦のタイミングを外してしまった浅川選手。結局浅川選手は東洋フェザー級タイトルは獲得するものの、脂の乗り切った時期を逃して世界には手が届きませんでした。しかも、浅川選手は引退後の01年7月に、湖で溺れて帰らぬ人となってしまいました。
この試合は、試合自体もまるで作ったような展開で印象的でしたが、その後の人生までをも象徴しているようで、忘れられない試合でした。
■WBA世界J・バンタム級タイトルマッチ(90年6月30日・タイ チェンマイ)
●中島俊一(挑戦者・ヨネクラ)
○カオサイ・ギャラクシー(タイ)
8R TKO(レフェリーストップ)
●中島俊一(挑戦者・ヨネクラ)
○カオサイ・ギャラクシー(タイ)
8R TKO(レフェリーストップ)
■日本J・バンタム級タイトルマッチ(90年10月15日)
●中島俊一(王者・ヨネクラ)
○鬼塚勝也(挑戦者・協栄)
10R 2分42秒 TKO(セコンドのタオル投入)
●中島俊一(王者・ヨネクラ)
○鬼塚勝也(挑戦者・協栄)
10R 2分42秒 TKO(セコンドのタオル投入)
■日本J・バンタム級タイトルマッチ(91年3月18日)
●中島俊一(挑戦者・ヨネクラ)
○鬼塚勝也(王者・協栄)
10R 判定
●中島俊一(挑戦者・ヨネクラ)
○鬼塚勝也(王者・協栄)
10R 判定
90年頃、中島俊一という日本王者のボクサーがいました。高校時代には演劇部に所属していたという経歴で、明治大学でボクシングを始めて卒業後にプロになった選手です。88年に日本J・バンタム級王者となり6度防衛しているというなかなかの選手ですが、見た目はあまり強そうではありませんでした。そしてなんと言っても一番の特徴は、その驚異的な打たれ強さでした。
90年6月に世界挑戦のチャンスを得た日本王者の中島選手。王者のカオサイはそれまでタイトルを13度防衛しておりタイの英雄として名高く強い王者でした。この王者相手に、中島選手は果敢に戦いました。結果は8RKO負けでしたが、この試合で中島は1回のダウンはおろか、後退すらせずに終始前に出続けたのです。王者のカオサイはアウトボクシングで中島をめった打ちにするものの退かず倒れない中島を見て「レフェリーはどうして止めないんだ!」といったアピールをする状態でした。
そんな中島選手が再び世界に挑戦する為に、日本に戻って90年10月にタイトルマッチを行うことになりました。相手は13戦13勝12KO無敗という脅威の戦績を誇るホープ・鬼塚選手です。アマチュアのエリートだった鬼塚はすでに高い人気を誇っており、セコンドにはタレントの片岡鶴太郎。切れるパンチでKOの山を築き、国内無敵の存在でした。
鬼塚に対して王者の誇りを持つ中島は若い鬼塚のパンチを浴びて顔を腫らしながらも怯まず、堂々とい打ち合いを挑みます。そして最終10R、鬼塚の猛打が中島に襲い掛かります。中島は打たれ続けて血だるまの状態となるもやはり後ろには引かず、鬼塚に反撃のパンチを繰り出します。顔は腫れあがりふらふらになりながらも決してダウンをしない王者を見かねたセコンドがタオルを投入し、TKO負けとなりました。しかし、負けたとはいえスター鬼塚を相手に王者の誇りを見せた中島は、私に深い印象を与えたのです。
そして91年3月に、鬼塚選手の2度目の日本タイトル防衛戦で再度両者が激突します。中島選手は、まだまだ世界最挑戦をあきらめてはいませんでした。挑戦者となった中島は、鬼塚に対して果敢に打ち合いを挑むも王者となった鬼塚のパンチは精度を誇り、次々と中島の顔面を捉えます。世界王者となってからは判定勝利の多かった鬼塚ですが、世界挑戦前はそのほとんどをKOで勝利しており、前の試合では1RKOで勝利を飾っています。その鬼塚のパンチを受け続けるも、中島はあきらめずに反撃を続けたのです。正直、漫画でこんな試合展開を描いたら嘘臭い、というほどの試合内容でした。結局10R終了で大差の判定となり鬼塚の勝利となるのですが、私は「すごい物を見た」という気持ちで呆然とTVを見ていました。
この3戦を最後に中島選手はボクシングを引退しました。いずれも打たれての敗戦でしたが、完全燃焼と言っていいと思います。現在は茨城・水戸でジムを経営している中島選手。パンチドランカーになっていないかだけが心配です。
そして、93年に始まるK-1がまだ無かったこの頃、フジテレビではキックボクシングの放送が深夜に行われるようになりました。確か最初の放送のメインは、現在総合格闘技界の中心にいる慧舟会(当時はまだ空手の道場でした)の西良典と、ヨーロッパ中量級の帝王ロブ・カーマンの試合でした。
北斗の覇王・西良典が87年に長崎に慧舟会という空手の道場を開いたことは、当時フルコンタクト空手をやっていた私にとっては印象的な出来事でした。空手の道場ながら、当初から短刀による組み手など、多分に総合をイメージした練習を行っていた事を覚えています。
■全日本キック(90年9月28日・後楽園ホール)
●西良典(慧舟会)
○ロブ・カーマン(オランダ)
1R KO
●西良典(慧舟会)
○ロブ・カーマン(オランダ)
1R KO
その西選手が35才にして、バリバリの帝王カーマンに挑むもKO負けを喫しました。正直すでに西選手の動きはやや峠を越えた印象がありましたが、帝王を相手になかなかがんばったことは確かでした。試合後にプロレスラーの盟友・藤原組長と西選手が抱き合って泣いて悔しがったという記憶があります。
この西選手、その後リングスに参戦し、修斗のVTJでは日本人で始めてヒクソン・グレイシーと対戦するなど総合格闘技を考える上では外せない人物です。現在では表に現れることはほとんどありませんが、当時は30代後半ながら現役選手として打撃もグラップリングもできる総合格闘技の草分けでした。
当時は今ほど試合の機会は多くありませんでしたから、平直之や本間聡など総合系の格闘家はいろんな競技、大会に出ていたという記憶があります。90年頃というのは、純粋な総合格闘技はまだ日本にはほぼ存在しない時代でした。
当時は今ほど試合の機会は多くありませんでしたから、平直之や本間聡など総合系の格闘家はいろんな競技、大会に出ていたという記憶があります。90年頃というのは、純粋な総合格闘技はまだ日本にはほぼ存在しない時代でした。
この日の放送での他の試合は、ムエタイ7冠王のチョモンペット・トーユンヨンにキックの世界王者の清水隆広が挑む試合や、8年間無敗の伝説のキックボクサーだったモーリス・スミス、後にK-1で活躍するチャンプア・ゲッソンリット、日本のホープだった立嶋篤史など見所満載のメンバーでした。当時から空手雑誌でキックボクシングの記事を読んでいた私はTVでキックが見れるいい時代が来たものだと喜んだものです。
この試合の放送は、フジテレビの清原プロデューサー(現・PRIDEプロデューサー)が格闘技に理解があり放送に尽力したという背景から実現したものです。このあと93年にはじまるK-1の放送のプロトタイプとも言える放送で、私は立ち技格闘技の一つのターニングポイントであったと言えると思っています。
そして、
□91年 UWFの解散、3派(リングス、Uインター、藤原組)への分裂
□93年 パンクラス、K-1、UFCがそれぞれ旗揚げ
□94年 シューティングがヴァリトゥード・ジャパンを開始
などといった流れがあり、アメリカや日本でほぼ単発の総合イベントが次々を開催されるといった状況が生まれます。そして、その中心はグレイシー一族でした。
□91年 UWFの解散、3派(リングス、Uインター、藤原組)への分裂
□93年 パンクラス、K-1、UFCがそれぞれ旗揚げ
□94年 シューティングがヴァリトゥード・ジャパンを開始
などといった流れがあり、アメリカや日本でほぼ単発の総合イベントが次々を開催されるといった状況が生まれます。そして、その中心はグレイシー一族でした。
■道場破り(94年12月7日・アメリカ/ヒクソン・グレイシー柔術アカデミー)
●安生洋二(プロレス/UWFインター)
○ヒクソン・グレイシー(グレイシー柔術)
6分45秒 KO(チョークスリーパーにより失神)
●安生洋二(プロレス/UWFインター)
○ヒクソン・グレイシー(グレイシー柔術)
6分45秒 KO(チョークスリーパーにより失神)
そして94年12月に安生がヒクソンに道場破りを敢行するという事件が起きます。アポイント無しで記者を引き連れて道場破りを敢行した安生選手。Uインターでは道場を仕切り、ポリスマンとして実力には定評のあった選手でありながら、どこかユーモラスな雰囲気を持っており、個人的には好きな選手でした。実際、安生なら勝てるかも知れない、と当時の私は少し思ったりしたのですが、結局酒を飲んでから道場に行った安生はヒクソンに意図的にボコボコにされて何もできないまま失神させられました。
ただ、プロレスラーとして総合格闘技を行った初めての日本人ということもあり、その後も総合格闘技で白星は挙げられませんでしたが、私のなかではある意味特別な選手の一人ではあります。実際この人がいなかったらUインター出身の選手の総合での活躍は無かったでしょう。
そして97年10月にPRIDE.1が開催され、高田延彦がヒクソン・グレイシーに何もできずに敗退するという大きなターニングポイントのイベントが行われました。日本中の格闘技ファンが失望したこのイベントの2ヶ月後、日本の総合格闘技界に一つの光明が現れます。
■UFC Japan "Ultimate Japan 1"(97年12月21日・横浜アリーナ)
○桜庭和志(プロレス)
●マーカス”コナン”シウヴェイラ(ブラジリアン柔術)
1R 3分45秒 ギブアップ(腕ひしぎ逆十字固め)
○桜庭和志(プロレス)
●マーカス”コナン”シウヴェイラ(ブラジリアン柔術)
1R 3分45秒 ギブアップ(腕ひしぎ逆十字固め)
TV東京の深夜枠という、マイナーな時間ながらTVで放送されたUFCの日本大会。ヘビー級トーナメントが行われ、プロレスラーで数少ない総合のできる安生洋二、UFCで活躍していたタンク・アボット、柔術黒帯のマーカス”コナン”シウヴェイラ、そして急遽参戦の桜庭和志というメンバーでした。
正直、桜庭選手は総合初参戦で、コアなファンからは、若いのに渋いいぶし銀の選手という評価でしたが、Uインターでも目立った活躍をしていたわけではありませんでした。しかも、予定していた選手に出場を断られ、急遽Uインターから選手を出すこととなり、4日前に金原選手にオファーが行くも断られたところから、若手の桜庭選手に出番が回ってきたといいういわば間に合わせの出場でした。
この桜庭選手、マーカス・コナンと1回戦で対戦し、打撃を受けながら低空タックルに入ったところをレフェリーにストップされ、セコンドの金原の指示で30分オクタゴンに居座るという抗議の末に決勝でコナンと再戦という流れとなる波乱がありました。
再戦の決勝では、コナンが桜庭のバックをいきなり奪う場面からのスタートとなりました。当時としてはいきなり絶対絶命の状態であるポジションからコナンの腕を取り、回転しながら腕十字に移行して一本勝ちをおさめるという快挙を成し遂げました。
再戦の決勝では、コナンが桜庭のバックをいきなり奪う場面からのスタートとなりました。当時としてはいきなり絶対絶命の状態であるポジションからコナンの腕を取り、回転しながら腕十字に移行して一本勝ちをおさめるという快挙を成し遂げました。
当時は柔術を学ばなければ総合で勝つことは難しいと思われており、総合格闘技系の団体ではこぞって柔術のテクニックを研究していた時代でした。そんな中で、トップのプロレスラーではない桜庭選手が柔術黒帯から一本勝ちをおさめて「プロレスラーは本当は強いんです」という台詞を吐いたのです。高田選手がヒクソンに敗れて沈んでいたファンに対する、まさしく救世主が現れたのです。
以降は現在の総合格闘技につながる流れですので割愛しますが、一貫して言えるのは、結果が明確に出る競技が好きであるということと、アドバンテージのある競技や選手に対しての思いいれが強いと言うことです。総合格闘技というまだ若い競技を、その創生期から見ることができたのはある意味幸せなことだと思っていますので、私の好きな競技の片隅に少しでも貢献できたら、と思っています。
「闘議(とうぎ)」出張版PRIDE.28観戦記 |
Guest 2004.11.14 |
u-spirit 33歳 闘議管理人 ソフトハウス 窓際本部長
小6から今も現場第一主義とU最強論を貫徹。座っているのは会社で窓際、会場ではリング際。日本がメジャーと呼ばれ、世界に誇れるのは総合格闘技。この流れに乗り「ムーブメント」ではなく「トラディショナル」へと押し上げるべく、独自の偏見だけで書いてしまいます。
小6から今も現場第一主義とU最強論を貫徹。座っているのは会社で窓際、会場ではリング際。日本がメジャーと呼ばれ、世界に誇れるのは総合格闘技。この流れに乗り「ムーブメント」ではなく「トラディショナル」へと押し上げるべく、独自の偏見だけで書いてしまいます。
前日の後楽園ホールにて観戦した”DEEP”の余韻が醒めやらんうちにPRIDE.28埼玉アリーナへ。今回、またまたRRSの良席を知人に手配してもらった(Fさん・39)ここで、ご存知ない方へ少しだけ、埼玉アリーナ座席事情を解説するとVIP席が0列〜5列と6列分があり、当然ながらRRS席は、その後からとなります。だからRRS席の1列目と言えど、実質はリングから7列目となってしまう。だから、RRS席で15列目(実質21列目)より後方だと悲しい位、観えません。それなら、もっと安く購入できるスタンドS席の最前列の方が段差もあり、リングを上から見下ろせますので、物凄くよく観えます。しかも、昨年のミドル級GPの頃からだと思うのですが、正面からの”VIP専用入口”に比べ、その次に高額なシートである筈のRRS席入口はアリーナの”資材搬入口隣”という殆ど、裏口の様な入場口です。泣けてきます。ホント、3万円もするチケットを購入したお客に対して、ひどい扱いです。で、脱線しまくりだったけど、詳しい試合内容については、ご存知の方も多いのでサイトやビデオを見てください。独自の感想を書きます。
<第1試合> 横井宏考×ヒース・ヒーリング
あまりにあっけない程、ヒーリング快勝。この試合は果たして?ヒースのメリットになったのだろうか?横井は、けして弱くないが、それならアレキサンダーと組むべきでは?ヒースはグッドリッジが去った今、”新PRIDEの番人”になれる唯一のファイターなんだから。
<第2試合> チェ・ムベ×ソア・パラレイ
チェの頑張りとキャラを賞賛する声が多かったが、僕自身、両者ともテクやパワーが劣りPRIDEナンバーシリーズのレベルとは言い難いと感じた。世界最高峰のリングと豪語するならば”おこぼれ出場枠”など不要。それは、この試合を観戦していたリングサイドの米PPV放送解説者たちの表情を見れば一目瞭然。
<第3試合> ヒカルド・アローナ×セルゲイ・イグナチェフ
アローナはPRIDE初の一本勝ち。彼のポテンシャルの高さは随分と前から知られていたが、PRIDEでは、勝ち損ねばかりだっただけに。RTT所属選手からの勝利に本人が一番、喜んでました。実はアローナ、RINGS時代にヒョードルを圧倒する試合をしてまさか!?の”判定負け”という過去の因縁で現RTT(旧 RINGSロシア)が大嫌いって事情があったので…。
<第4試合> エメリヤーエンコ・アレキサンダー×ジェームス・トンプソン
日本では無名のトンプソン、今大会の観たい試合のひとつだった。筋肉の付き方がパンクラシストっぽく、最高にカッコイイです。が、期待とは裏腹に空回りの末に…撃沈ならぬ、ぽてちん。コメント書き様がありません。
<第5試合> 金原弘光×アリスター・オーフレイム
金ちゃんの粘り強さも通じず、一方的な試合で分かり難かったと思うけど、窮地の中、金ちゃん何度もトライ!間接技を仕掛けようとしていました。顔面だけでなく地上波放送も大幅カット。無念。。。
<第6試合> マーク・ハント×ダン・ボビッシュ
言いたくないですが『ワークである。』と感じたのでノーコメント。理由はボビッシュのグラウンド膝と最後のパンチ
<第7試合> 中村和裕×ダン・ヘンダーソン
試合は残念な結果、またもや、正しく評価されないであろうダンヘンを想うと辛い。確かに、日本人ヒーローは必要であるし、ホームである日本のリングでは、日本人選手が優遇されても良いと思う。ただ、あまりに節操のない組み合わせには夢を見ることはできない。中村選手は充分に可能性を秘めているが、開花は未だしていない。
<第8試合> ミルコ・クロコップ×ジョシュ・バーネット
鳥肌ものの入場、ゴング前の期待に包まれた緊迫感。久しぶりに『どっちが強いんだよ!!』と言いたくなる試合が…え!?あっ、あれぇ!?って感じで終了。ジョシュは簡単に、あのミルコをテイクダウンした事だけが事実。再戦熱望!!!!!!
<第9試合> ヴァンダレイ・シウバ×クイントン・“ランペイジ”・ジャクソン
脱臼2連発と会場の熱がやや冷めていたが、この試合がその全てを飲み込んだ。ただただ、壮絶。過去、PRIDEでシウバがこれ程、追い込まれた試合はなかっただろう。会場では、”過去のヒール”シウバが、絶対王者というヒーローになっていた。不満を言えば、1R、両者それなりに動きのあるグラウンド状態でイエロー?しかも、上になっていたランペイジにまで出るのは?。かと思えば、近藤戦に続きシウバのロープ掴みながらの踏みつけにはイエローなし。カード提示基準が曖昧すぎ。やはり、シウバにはカウンターは有効だと確信できた試合だった。
<総評>
最後のシウバの試合に救われた感が拭えない今大会、会場キャパを狭めた座席配置(2.5万収容)にしていたが、ほぼ満席状態であるものの、やはり、空席が見受けられた。客の反応は正直である。誰もが、是が非でも会場で観たい大会ではなかったということ。PRIDEという冠(かんむり)では、会場を埋め尽くす超満員にはできない。規模が大きくなればなるほど、興行の水準を保ちつつ、新しい事へのチャレンジは困難な作業だと理解はできるが、カードが未決定のまま早々にチケット販売し、言葉だけで観客と選手を大切しない夢のない場所に人は簡単に集わない。先に行われた、修斗の川尻vs宇野の試合や、前日に開催されたDEEPは小さな会場だが、若手の選手たちを”リアル”が大好きな観客が熱気をもって見守っていた。そこには、表現するモノと求めるモノが一致した一体感があふれていた。次回、男祭りはSADAMEというが、本物を見極める情報も知識も今の格闘技が好きな観客たちは既に持ち合わせている。本当にPRIDEには『純度100%のピュアな世界最高峰のリング』であって欲しい。
最後のシウバの試合に救われた感が拭えない今大会、会場キャパを狭めた座席配置(2.5万収容)にしていたが、ほぼ満席状態であるものの、やはり、空席が見受けられた。客の反応は正直である。誰もが、是が非でも会場で観たい大会ではなかったということ。PRIDEという冠(かんむり)では、会場を埋め尽くす超満員にはできない。規模が大きくなればなるほど、興行の水準を保ちつつ、新しい事へのチャレンジは困難な作業だと理解はできるが、カードが未決定のまま早々にチケット販売し、言葉だけで観客と選手を大切しない夢のない場所に人は簡単に集わない。先に行われた、修斗の川尻vs宇野の試合や、前日に開催されたDEEPは小さな会場だが、若手の選手たちを”リアル”が大好きな観客が熱気をもって見守っていた。そこには、表現するモノと求めるモノが一致した一体感があふれていた。次回、男祭りはSADAMEというが、本物を見極める情報も知識も今の格闘技が好きな観客たちは既に持ち合わせている。本当にPRIDEには『純度100%のピュアな世界最高峰のリング』であって欲しい。